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いとう歯科医院 院長
伊藤寿浩
【略歴】
昭和60年3月
愛知学院大学歯学部卒業
平成 6年6月
いとう歯科医院 開業 |
【プロフィール】
少しでも私のことを知っていただければと思い、プロフィールを作成しました。
拙い文章ですが、愛知県 いとう歯科医院にお越しになる前にぜひお読みください。
●幼少〜小学時代
家は田舎の昔ながらの味噌醤油屋で両親はいつも忙しく働いていました。
父は職人気質で、結構頑固者。母は田舎のおばちゃん。
ちゃきちゃきと動き回り、おしゃべりが大好き。そんな母親の性格が似たのか、べらべらしゃべり好きな私。
家の仕事がいつも忙しく、ほとんどの時間を工場で仕事する両親でした。来る日も来る日も長靴履いて、おみそまみれになりながら、せっせと働く両親の後ろ姿を見て育ちました。
そんな状況なので家族全員で集まって夕食を食べることは1週間で1日くらいしかありませんでした。
忙しい両親にご飯を作ってもらって、先に食べて、テレビを見て過ごす毎日でした。
よくしゃべり、活発で、元気な子だったんじゃなかったかと思います。
おしゃべりなところは、いらんことまでしゃべってしまう。母が参観日の時に、学校の先生から私の感想を聞いたらしいのですが「何にも聞かないんだけど、家の中のことが手に取るようによくわかるんです。
この子が全部話してくれるんですよ」と言われて、恥ずかしかったと母親は昔を懐かしんでいました。
いたずらもしました。悪さもしました。子どもでいいこと悪いこと、ちゃんとわきまえていないのですよね。
とにかくやってみたかった。隣の家の中に石を投げ入れたら、「ちゃっぽーん!」って音がした。
またするかと思い、またやると、「ちゃぽーん。」おもしろくなって、大きい石を投げた。「がしゃーん!」「こらー!!!」逃げました。
必死になって。馬鹿でしたねえ。
また、何でも興味を持っていました。
そしてやってみないと気が済まない。目の前にラジオがあると、ラジオを分解して、どうして音がするんだろうと。
壊した物の数は数えきれず、ラジオ、時計、機械ものはほとんどと言っていいほど私のドライバーが回っていました。
なにせマイ工具を持っていたほどです。
作るというより、壊す。得意でしたね。
分解して、また組み立てる。でもねじが数本余る。
まあいいかということでスイッチを入れると、また動く。
やったー!と喜ぶんですが、すぐ壊れる。ねじ、ちゃんと入っていないんですもんね。
今から思うと本当に良い時代に生まれ育ったなとしみじみ思います。
周囲の環境、人々、みな良くて、不良と言われた子もいたけど、地域で子育てしてる、そんな武豊です。
小学生のころは、学校まで3キロを徒歩で通学。
学校から帰ってくると、いつも鞄を玄関にほかして友達と遊ぶ毎日でした。そのころ、ドッチボールが流行っていて、ほとんど毎日朝も休憩時間も夕方もドッチボールをしていました。
毎日していてよく飽きずにしたものだなあと今でも感心します。
毎日歩いて、体を動かすことで、結構小さいながらに体力がついたのではないかと。おかげで小学校の運動会では、駆け足では誰にも負けたことがなく、逃げ足はすばしっこかったですよ。
この頃は模型飛行機が大好きで、休みになると学校の校庭に出かけてUコンという飛行機を友人と日が暮れるまで飛ばしていました。
夏休みは、毎度模型飛行機作りの記憶しかありません。
少し前に実家のリフォームをしたのですが、天井裏に壊してしまった機体以外に数機飛行機が眠っていました。
置き場所に困って処分したのですが、懐かしかったですね。
小学校のころからプラモデルや工作が大好きで、宿題するより工作する、親にしかられるという単純なプロセスをしっかり踏んでいました。
6年生の時、放送部に入り、なにせ話すことが好きでおしゃべりな友人と二人でお昼の放送に「DJ番組」を顧問の先生の許可も得ずにやり始め、学校中に結構受けてしまって他のメンバーもDJ番組を始めてしまった一大ブーム(?)を作ってしまったことがあります。
なにせ今でもしゃべるのは好きなんですが、そのころから今が培われていたといっても過言ではありません。
でも聞いてた当時の人たちは、おもしろくもなく、ただうるさい面々だったかもしれませんね。
●中学時代
中学生のときは、、今度は結構気分屋で、お高くとまっていて今思っても、嫌なタイプの人間になってしまったようです。
ちょっと勉強ができるからと変にプライドが高く、嫌なやつと思われていても「他人は他人。自分は自分」と妙に納得していたところが、また嫌なやつでした。
もっとそのときから、他の人にいろいろすれば今頃もっと違った人生があったものをとつくずく後悔しています。
部活動はバレー部でした。なかなか怠慢なクラブで試合をすればいつもビリ。
でもそんな中でも自分達なりに一生懸命に取り組んでいました。
今の歳になって振り返ると、結果の伴わない努力は、一生懸命ではなかったということです。
本当に一生懸命していれば必ず結果がついてきます。
あのころはそういった事が解らなかったです。
そして中学を卒業し、目標にしていた高校に入学しました。
あのときは、新しい人間関係の中で新たに出発できると言うことにワクワクしていましたね。
確か2年生の時に実力テストで、ビリから数えて数番目まで落ちたとき「気を抜くとあっという間に追い越される」と危機感をそこから必死に頑張りました。
1年後トップから数えて数十番までになれました。
やればできると自信がついたことが高校時代でいちばんうれしい出来事でした。
●高校時代
高校のときも部活動はバレー部に入っていました。
中学のバレー部と違って、夏の合宿は3日間で、滅茶苦茶厳しく朝6時から夜9時までのハードスケジュール。
限界まで頑張る精神力を養うことができたと思います。
2年生のクラブの夏の合宿がもっともつらかったですね。
俗に言う「血反吐吐くまで」しましたから。
始めてクラブを辞めたいと思いました。
でも今思えば辞めなくて良かったです。
やはりその時辞めていれば、自分の中で何でも逃げる癖ができてしまったかもしれません。
それを思うと恐ろしいです。
勉強は現代国語・日本史・世界史・古文漢文などの文系科目が苦手でした。
特に古文漢文と現代国語がだめでした。
中学校時代からず〜〜っとなので、高校時代はチャート式現代国語(広辞苑くらいある参考書)を繰り返し繰り返し問題を解くように勉強しました。
古文漢文は全然解らなくてちんぷんかんぷん。
試験は運だけで、前日見ていた問題集の問題がそのまま出て超ラッキーでたこともありました。
そうして、大学受験のときが来ました。
2校の私立大学歯学部と1校の国立大学の農学部を受験。
すべて合格しました。
始めに合格通知をもらったときには、もちろんうれしい気持ちでしたが、次の歯学部の合格発表までに入学金を振り込まなければいけないので、絶対に合格しているのか、不安で仕方なかったです。
もし合格してたら入学申込金は戻ってこないのに振り込んでもらって、両親にはほんと申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
早く一人前の歯科医になって、親孝行したいと思いました。
●大学時代
晴れて歯学部に入学したとき「これで晴れて念願の歯医者になれると」国試も受けてないのに勝手に思ったものでした。
行きたかった学部だったので、とてもうれしく、どんな授業を受けるのか楽しみでもありました。
大学3年生までは、自宅から通学。
朝6時に起きて、8時30分に学校まで毎日通学、同時に家庭教師のアルバイト、夏休みには電気屋さんでアルバイトしていました。
勉強はほとんど試験の1ヶ月前から始めていました。
暗記物の多い専門の科目は、自分で問題集を作って通学途中電車の中でぶつぶつ言いながら、暗記に専念する勉強の仕方でした。
勉強以外では、歯科医療サークルというクラブに所属。
「明日の医療を自分たちで考え、つくるんだ!」と大それた事を考え活動しておりました。
主な活動は、夏休みなどの長期の休みにOBの受け持つ保育園、身障者施設に出かけて、検診、ブラッシング指導、先輩方の補助などをするのです。
身障者のかたは、上手くでき無くってやきもきしたり、ちびちゃんができたのを一緒になって喜んだり、いい学生時代のサークル活動でした。
国家試験に向けては、親友と二人で国試対策問題集を6年生の夏休みから一日3〜4時間やり始め、15冊300ページにも及ぶ問題集を年末までに5回、すべての問題を丸暗記するくらいしました。
これは国試を受けるまで続け、通算10回は問題集をぼろぼろになるまでしました。
あと、国試対策委員という組織に所属し、問題を作ったり、学生に問題を配ったりしながら、ほかの大学の問題の答えを作成する事もしていました。
無事国家試験に合格したときは「これでやっと、人の為に自分が何かすることができる!」と。
仕事をするわくわくした気持ちと、責任のある事をする重みを常に感じました。
●歯科医師になり開業へ
大学卒業後、静岡のK歯科に勤めました。
ここでは、大学では知り得ない開業医での、しかも学会発表も多く非常に先進的な診療にふれることで、1にも2にも技術を学びたかったのです。
勤務のお給料は、生活費と本代に消えていました。
残ったわずかなお金を開業のための貯金として貯めていました。
4年半勤務して、十分ではないにしろ地元に戻ることになり、多くの症例を早くこなせるようになりたくて一日100人超来院する医院に行きました。
毎日自分のノルマが40〜50人ときつかったのですが、今を思えばその時に周りを見て治療が早くできるこつをつかんだように思います。それから、当時は義歯が不得意で、克服したくて得意な先生のところに、2年半勤めました。
その時の経験が今大きく生かされています。
勤務医時代、「とてもよくしてくださりありがとうございます」と、勤務していた先輩から自分が担当していた患者さんの言葉を聞いたときとてもうれしかった記憶があります。
その方は、食べれることだけでなく、気持ちも配慮してもらってうれしかったと感謝していました。
そして、ついに自分の医院を開業するときがやってきました。
自分が生まれ育った、ここまで育ててくれた人たちへの恩返しをしたくて、名古屋等での開業の候補もありましたが、すべて蹴って地元での開業を決意しました。
私はこれまで、インプラント、補綴、ペリオ、レーザー、審美、矯正。ありとあらゆるジャンルの講習に出かけ、様々な知識・技術の習得に情熱を注いできました。
講習を受けた合計時間は、かる〜〜〜く10000時間は超えていると思います。
もちろん現在も勉強は続いています。
もちろんほとんどが土曜日や日曜日で、休日がなくなってきますが、プロである以上、自分の技術に磨きをかけるのは当然だと思っています。
私が歯科医師になってよかったなと思える瞬間は、治療を重ねるたびに心を開いて接してくれるようになり、治療が終わって喜んでいただいたときです。
「ご飯がおいしくいただけます。ありがとう」と言われたときはとても嬉しかったです。
また、「ここは先生だけでなくスタッフもみんながいいから、ほんとに来やすいわ!」と言われたときは、思わず胸が熱くなりました。
毎日忙しく診療に携わっていますが、愛知県 いとう歯科医院に出会えてよかったと思っていただける患者さまが少しでも増えるように、手を抜かずベストの治療を心がけています。
「ここに来てよかった」という、開業医にとって最高のほめ言葉をあなたからもぜひ頂きたくて日夜、業務に勉強にと励んでいます。
それでは、あなたのお越しになる日を心待ちにしております |